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概要

Dental Products News227

ヨシダグループ111周年特別寄稿1907・鉄製無昇降椅子1933・10号ユニット2017・EXタービン造を始めたという意味で、山中卯八はこの道の最先端を切り拓いた正統派である。自作のハンドルプレスで蒸和罐の絞り出しに取り組んでいたころ、卯八の吉田鉄工場では、足踏エンジンや咬合器などもつくっていた。興味深いことに、卯八は、診療用チェア(無昇降椅子)の製造をやめている。当時の無昇降椅子は、鋳物に漆を塗り金蒔絵を施すもので、やめた理由は機械屋の腕のふるいようがなかったからだとも、蒔絵師の扱いに手を焼いたからだともいわれている。ものづくりの企業文化おそらく創業期卯八の時代はもちろん、一(1913~1991卯八長男)の若い頃にも、日本の機械産業の基盤は乏しかったので、すべて一からつくらなければならなかった。卯八から数えて5代目山中通三(現・吉田製作所社長1952~はじめ一三男)は、この当時の吉田では「電気のスイッチもつくっていたようです」と笑う。部品をつくるごとに失敗を経験し、独自の工夫を重ねた。昭和初期のユニット十号(外国製のコピーではなく、日本人の体型に合わせた初のユニット)に苦労していた頃の話である。同じ頃、蒔絵師に手を焼いて長く中止していた治療椅子の生産を復活している。術者の診療効率だけでなく、何よりも患者の快適性を考えたチェア製作を目指した。それが、油圧ポンプ式の昇降椅子であり、この理念は今も引き継がれている。油圧による昇降椅子を開発するにあたって、部品の加工がむずかしく、このときは焼結金属(金属の粉末を固めて、金属が溶ける温度より低い温度で焼き固めたもの)のメーカーと部品を共同開発し、油圧ポンプそのものを一から製作した。現在、その部品は、世界中の昇降椅子で使われるようになっているという。焼結金属のメーカーと排他的な契約を結んでいれば…、通三はそう嘆いていた父はじめ一の面影を思い浮かべる。はじめ何でも自製するのだから、失敗談には事欠かない。エックス線照射器をつくるとなると、もちろんエックス線チューブから自製する。笑い話のような話だが、照射器を試作して試しに手をかざしたが、言われているように骨が見えない。どうしたものかと専門家に相談に行って大笑いされたという。もちろん感光板に写さなければ骨が見えるはずはない。山中太一(1925~1988卯八五男)の時代、あるとき製薬会社から空気中の酸素を集めてボンベに圧縮する機械の製作を求められた。そこでコンパクトなコンプレッサーを仕入れようと調べているはじめと、父の一は一喝「なんでつくらねェンだ」という。結局、コンプレッサーの製作で苦労したために、この製品は日の目を見ずに終わった。太一も似たようなもので、機械の制御をICでするのが当たり前の時代を迎えると、太一はICも自製する気で満々だった。山中卯一郎(現・ヨシダグループ会長1941~一長男)は米国留学後、ギヤポンプを使った扇ユニット、スプリングを使ったアームバランス、国産マイクロモーター、無影灯の反射鏡など、これまでのものづくり職人とは異なる分野に挑戦していった。ものづくりにこだわるのが、ヨシダの企業文化である。最近のことである。エアタービン・ハンドピースの使い回し騒ぎで、安価なエアタービンが求められるようになって、圧搾空気と排気、水の通るパイプを海苔巻きのようにシリコーン樹脂で包み込む構造の“EXタービン”を開発した。ハンドピースは、3種の管をバランスよく通すシリンダーのミリングにコストがかかるのだが、このミリング工程をなくして先端をCAMでつくったものだ。ところが、職人たちはCAMでつくったヘッドを丁寧な手作業で仕上げなければ気が済まない。新入社員の面接でも、意図しているわけではないのだが、ものづくりが好きな人間を採ってしまう。少なくとも成績本位ではない。山中通三は笑って言う「ヨシダは体育会系です」。1.歯科機械のヨシダ七十二年の歩みp.322.長井五郎焔の人しみづうさぶろうの生涯自伝“わがよのき上”解題さきたま出版会,1984.著者秋元氏は医療系の編集ジャーナリストである。著書にわが国の歯科の近・現代史をノンフィクション作品とした「手仕事の医療評伝石原寿郎」(生活の医療社)などがある。Dental Products News 227 1はじめ