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概要

Dental Products News227

脈々と流れるものづくりの気概秋元秀俊(編集ジャーナリスト)蒸和罐破裂しない蒸和罐歯科機械のヨシダの原点、吉田鉄工場のものづくりは、蒸和罐(釜)に始まる。蒸和罐とは、総義歯の調製が歯科医療の主な仕事だった時代のもっとも重要な歯科医療機器である。アクリリックレジンが登場する以前の明治・大正時代、義歯床には生ゴムに硫黄を加えた蒸和ゴムが使われていた。石膏で固めたワックス義歯を加熱加圧して蒸和ゴムで置き換えるための圧力釜のようなものである。ゴムチップと硫黄、色素をこれに入れ、下からストーブで加熱して5~6気圧をかけるとワックス義歯が蒸和ゴムになる。こうして硬い義歯床ができるのだが、火加減を誤ると内圧が上がって、しばしば罐(釜)の蓋が破裂した。料理中に圧力釜の蓋が吹っ飛んで、天井を壊すような具合である。運が悪ければ大怪我をする。舶来(輸入もの)の蒸和罐でも事情は同じだった。明治の末のことである。当時の技術では、厚い銅板から器をつくることが難しかった。蓋を留める丈夫な縁をつくることも難しかった。ヨシダの創業者・山中卯八(1879~1967)は、明治42年2月、31歳になった日に本所柳原1丁目(現・墨田区江東橋1丁目)に工場ついに破裂しない蒸和罐が完成する。この新型蒸和罐を契機に、吉田鉄工場には「吉田製の蒸和罐」を求めて商店からの引き合いが急増した。大正7年、蒸和罐の自作からわずか7年で、意図せずして「吉田製」というブランディングに成功したのである。実際、この新型蒸和罐は、日本の機械製品としては当時極めて珍しいことだったが、海外に輸出されている。この後、ただ製品をつくるのではなく、いままでにない製品を生み出すために、製品をつくるための機械を考案し続けるものづくりの伝統が生まれるのである。因みに新興商店として頭角を現しつつあった京都の森田商店(現在のモリタ)も、破裂しない蒸和罐を求めて大正8年から取引相手となり、それをきっかけに、戦前は吉田の売上の35%が森田商店という互いに切っても切れない機械屋と商店との関係になるのである。足踏みエンジンから咬合器まで作っていた山中卯八は、文字通りたたき上げの職人である。12歳で上京して鍛冶屋に住み込み、わずか5年でひとかどの鍛冶工となり、清水卯三郎の瑞穂屋に身を寄せて当時わが国に入ったばかりの旋盤を移し、「歯科機械・真田紐編機製造業吉田鉄工場」の看板をを習得し、その後旋盤工として神田や芝の工場を転々として「渡り掲げるが、翌年、銅製の胴を仕入れて蒸和罐の製造に着手する。早くもその翌年、大型の丸ハンドルプレスを自作して胴を卯八自身が絞り出し、自社内製とする。このハンドルプレスは「大飯を食って自分の体を動力に変えるような力仕事」だったと言われるが、蒸和罐づくりには卯八の職人根性をかき立てるものがあったのだろう。たるき胴の椽(縁)の溶接を真鍮ろう付けに改良して耐圧性能を高める。しかし、真鍮ろう付けというのは、溶接とはいっても柔なものである。そして、さらに人力でハンドルプレスを回す苦役から脱出するため、卯八は三連の水圧ポンプを購入し、水圧プレスで胴板を絞る機械を自作する。この機械のお陰で力仕事から解放されると、次には胴板を厚くする。そして真鍮ろう付けを使わない折り曲げ加工とし、1やわ修行」を続けた。この腕一本の職人卯八が、歯科器械に出会うのは、瑞穂屋においてである。2別に一稿なくして、この瑞穂屋の清水卯三郎について紹介する術はないが、大胆に略記するなら薩英戦争(文久三年、1863年)に際して単独英国の旗艦に通訳として乗船し、薩摩海軍の五代友厚や松木弘安を助けた維新の立役者のひとりである。薩英和平の功を認められて、パリ万国博覧会に幕府の肝いりでわが国の文物を出品する。印刷機を初めて輸入したのも、この清水卯三郎である。この人が、明治半ばになってわが国初の歯科雑誌(明治24年創刊)を創刊し、同時に唯一最初の歯科器材輸入商となり、瑞穂屋を設立した。清水卯三郎の謦咳に触れて歯科器械製