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前回には、娼妓のいろいろについてお話しました。今回は娼妓の「廻し方」ともいう「妓ぎ夫ふ」(遊里語)についてのべてみましょう。公娼、私娼ともにさまざまな形でありました。吉原の「牛太郎」「ぎう」の名の起りには別に由来説もあるのですが、中国語には「烏う亀き」の語があります。烏亀というのは「妻を放って他の男と淫せし生るとき、その夫を烏う亀きという、亀は自ら交る能はず、牝を放って蛇と交はらしむという俗説」という俗説によるといいます。前にのべました一名「忘ほうはち八」のことです。(注・人間が常識である孝悌忠信礼儀廉恥の八つを忘れるとの意)笑話本『笑府』(中国の笑語本・明和五年・閏風篇)にも、「烏亀」と題する笑話があります。それには華語の「うき」は恰あたもか「つつもたせ」と思われるが「忘八」は、わが国ではこれを「くつわ」とも読ませて、妓棲主または遊里の意に用いられています。『麓の色』に「今は娼家の主を長者と云はず、俗に忘八というとあります。また古語辞典には「仁義礼智信忠孝悌を失った者の意。」いわゆる遊里で遊ぶことや遊女屋のことをいいます。八徳を忘れる程に面白い所、または娼家の意などです。だが華語からすれDoctor's Essayば「妓夫」の意味となります。妓を抱えて商売する棲主は、その形態からいって妓夫的存在でしたことは想像できます。「夜たか」にも「妓夫」が付添っていたことは諸書に見えますが、この実態は、見張役の男、あるいは客引の男であり、夜たかが本所吉田町から出て稼ぐとき、その幾組かの夜たかに必要な妓夫が雇われていたといいます。ここでは妓夫が必ずしも娼婦の情婦というわけではありませんが、妓夫の多くは娼婦の情夫で、いわゆる「紐ひも」の男でした。吉原の「牛ぎゅ」うについては花に廻る(鼻で廻る)の意味からだとも、湯ゆなぶろ女風呂から起ったという説があります。『承応の頃(一六五二)ふきや町に泉風呂の弥兵衛という者ありしが、かの家に久助とて年久しく召使いし男ありて、風呂屋の遊女を引きまわし客を扱いけり。此久助煙草を好みしが、他人に紛れぬようにとて、紫竹の太きを、長さ七八寸に切り、吸口火皿をつけ、この長さ煙きせる管を常に放さず腰にさしていたり、その上、久助は生れつき「背むし」にて、丈は小さき男の煙管をさしている形を、その頃の若き者ども、かの久の字のかたちを見立て、久助が異名を「及きゅ」うといいしより、かの風呂屋が方かたへ遊びに行こうとて、ギウが所へ行こうなどと云われしより、自ら風呂屋の男の惣名となれり。当時ギウを妓有などと書は好事の者のわるさなり。予が若かりし頃までも「及」と書けり』と洞房語園の著者庄司勝富が書いています。久助の異名「及」から起ったといいます。「客引き」(遊里語)遊里で女郎の見世付制度が起ると、やがて「張見世」が始まり、同時に呼び込みや「客引」というものが別に出きました。関西では「引き子」、「引き手」といい、仲居のおばさんが店頭にいて客を引きました。東京では近在まで「男衆」の呼び込みで「牛太郎」という者がいました(前項妓夫)。この者が店頭で先ず客を呼び込み、遊を勧すすめます。大体の交渉はここで取り極めるから、登楼後の客の支拂などについては此の者が責任を負って、もしも問題が起った場合には処置に当たります。そして登楼すると遊客は「引ひきつ付け」と称する応接間へ通され「やりて」(遺り手)のおばさん(仲居)がでてきて、登楼後の取りきめが行なわれます。御見立の妓が引き会され、それがないものは、此の「やりて」に一任してきめてもらいます。そして、遊びの種類がきめられ、一応代金を渡すと、妓は客を部屋へ案内します。本部屋、切り遊び(時間遊び)、泊りの遊び等によって多少の相違があります。吉原の牛太郎は客扱いや、客の見分け方、勧め方に非常に熟練を要しましたから、近世の妓楼では、それぞれ専属の牛太郎を置いていましたが、もしも臨時の呼び込こみ男が必要になった場合などには、廓内の「寄せ場」へ行って男衆を頼みます。こういう牛太郎を「遊人」(いうじん)と呼んでいました。古川柳に〝素もと一歩ぶは真中を行く仲の丁〟というのがあります。これはふところに一分の金しか持てないので、あれこれと女郎部屋を見て歩き、よい家で遊ぶというわけには行かない。だからかねて様子の知れた妓楼へ真楼へ真一文字に行くとの句です。ところが吉原の掟では、通行の客を呼び込む場合、向い合って女郎部屋があれば自分の家の側がわを歩く者しか呼び図1明治時代通称「花魁」と呼ばれていました。格からいうと散茶に当たります。