Dental Products News197

Dental Products News197 page 10/28

電子ブックを開く

このページは Dental Products News197 の電子ブックに掲載されている10ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
Dental Products News197

にもなるんですが、もしも好まぬ客であれば客引に加わったとき熱心に誘い上げなければよかったのです。これ等は妓自身の客引きですが、売春の一般的組織形態としては、(1)娼婦が集団的であることが、客引にも亦客の方がやってくる場合にも便利だったこと。(2)稼業上の統制や自衛と、統率とか楼主経営者といったものを必要としたこと。(3)客引、交渉者、斡旋者を別にした方が便利だったこと。(4)稼ぎ場所のことなどが必要条件でした。街娼の「夜たか」にさえ、見張者、客引、世話役の「ぎう」が付添っていたといいます。白湯文字(しろゆもじ)私娼の一称で、こういういい方がありました。『売春婦異名集』(外骨著・大正十年)に京都、大阪、筑前、能登などで私娼といいました。「天保(一八三〇)頃より行われていた語で、「現に今でも唱る地方もあり「白湯文字」とは白地の腰巻を着せる故に名とす。湯文字とは女詞にて湯巻の略、公娼は凡て赤湯巻なり」とあります。『駅路の鈴口』(艶本道中物語・同名の類書あり)には、「京ぽんと町ここの女を白湯文字という」とあり、『皇都午睡』にも大阪の私娼の条に「市中には白湯文字とて隠し売女あり」とあります。江戸では公娼に限らず、町芸者やその他でも商売女は緋縮緬の湯文字を好んで用い、素足に駒下駄で裾からこの湯文字をちらつかせ、白い足を一層魅力的なものとしたのです。そこで、「ひぢりめん」と云えば玄人女の代名詞になりました。上方では、殊にこの風が早くから行われ、後には素人女も紅の湯文字をするようになりましたが、東京では明治期の婦女で堅女は必ず白木綿の湯文字に紐のついたものを用いました。「白湯文字」の娼婦は天保の頃、度重なる私娼取締の目をのがれて、素人風を装いひそかに売色したものらしく、それがやがてこの実名をもった娼婦の一種をなしたのでしょう。元禄、宝永の頃から京阪に唱えられた「白しろうと人」の娼婦も素人の義でした。伯人、素人(はくじん)などと書かれ、『虚実柳巷方言』(寛政六年)には、「白人とは素人(しろうと)ということ也島の内新地にて名物とす」とあります。『娼婦』売春を業とする婦女のことで、従来の分類によりますと、公娼、密娼、臨機売春の準娼などとされていました。わが国の「公娼」は戦後の昭和二十一年二月二十日限りで廃止されましたが、それまでの「娼妓取締約規則」明治三十三年内務省令で「娼妓とは登録をなし貸座敷内に於いて売春を業として行う女子を云う」のであって、登録をしなければ貸座敷内で売春行為をしても密売淫となり、また娼妓であっても貸座敷以外の場所で売春をすれば密売淫となって、これは私娼と同様に見倣されました。この公娼とは政策的な意図で、散在する娼婦達を一定の地域つまり廓内に集めて「散娼」から「集娼」の形態として取り締まった江戸時代(元和三年)からの制度でした。そしてこの公娼以外の娼婦は、すべて私的な隠れた娼婦との意味から「私娼」だったので江戸時代には「淫売女」、「売女」などの称が行われていました。その他稼業形態や場所的な区別では、街娼、船娼、駅妓、土妓等の私娼であり、遊女の等級別異称や各種私娼の異名など、わが国に行われた種類名称は凡そ五百種にも及んでいます(売春婦異名集による)。私娼は公娼に対する名で、取締規定によらない任意私的な娼婦で常に形や名称や場所等を変えて売春を稼としていました。そのため時には公娼以上に流行して、半ば公然たる存在でした。あの街道宿場における「めし盛女」の如きも、始めは単なる旅客の旅情を慰める旅籠の雇女で、全く臨機的な交渉に過ぎなかったのであったが、後には何れの地にもあるような専業的な駅妓となりました。密娼も勿論私娼に違いありませんが、そうした仲にも入らず、いわばモグリの私娼というわけ、或は表面素人の体裁を作って、ひそかに稼ぐ者です。前筆の臨機的な準娼とは茶屋女、雇女などが気まぐれに売春行為をなす者で、酒席や遊興場所などはそうした機会におちいり易いのです。準娼に「接客婦」の名があるのもそれです。次号へ続く込めないことになっていました。そこで向い側を歩く者は勿論、途の真ん中を歩くと、どちらの家からも呼込むことができなかったといいます。従ってもしも呼び込まれたくない者は道の中央を歩くことになります。戦後のわが国いわゆる赤線娼家では、妓が街路に出て客に呼びかけることは禁じられていました。妓は家の中からだけ声をかけることが出来、また、遊びをすすめるにも通行の客がわが店の一方から他方へ通り過ぎる間だけの呼込は許され、隣家へまたがって行き過ぎた者に対して呼び込は許されませんでした。ところが地方では、特に九州別府の遊里では、昭和の初め頃では両側に娼家の並んだ大通りだが、廓くるわ内道路という訳なのであろう、ここを通行の男には女の引手が左右から出てきて強引に客の腕など引きました。また、昭和十年頃の静岡県の清水の廓では、夕刻になると各妓楼から女郎が道に出て多勢して通行客を担ぎあげるばかりにして登楼を強しいた。しかし、その中でも強ごういん引に最後まで客を捕まえて押し上げた妓が相方となる掟でした。ここでは女郎の方に遊客の選択権があったこと図2新吉原江戸町1丁目16番地「大文字楼」(明治20年頃)図3大正から昭和初め頃